母親にあらがふ詭弁のスルドキをわが聴いてゐる参考までに  島田修三

あいあることばを探していたら、この歌とぶつかった。
「島田さん、また出会い頭の正面衝突ですよ」と言いたいのだが、作者とはまったく接点が無いので、何方かお知り合いの方がいたなら、お伝えください・・・って、本気にしないでね

島田修三の歌には、愛が溢れている。

かがまりて臀さらしゐるくらがりに孤独な鮭の一生をこそ思へ
牛肉をさばきてあればしかばねの冷たき組織は痛(いて)えとこそいへ

これらの二首も、愛だと思う。
島田修三の言葉は全て愛ではないかと思えてくる例えばここをクリック(勝手にリンクをしてしまったが、良いのだろうか・・・不安)

女流より男流(こんな言葉、あっただろうか?・・・不安)の歌のほうが、愛があるように思える

俺の辞書を折って使うな、どの辞書も妻の折りたる跡ばかりなり  
我の比較につねに息子を持ちだして息子を誉むるはなにゆえならん
なに切りて来し妻なるや鋸(のこぎり)と大(おお)釘抜きを下げて入り来(く)
神経を病める幼き姪へ書く書きては消してまた書きて消す
リアルタイムの恋の顛末子の歌の修辞の向こうに読み取らんとす
竹やぶの奥に陽が射す「ここに住みここに死にたる歌人某(なにがし)」

           (永田和宏歌集『百万遍界隈』より)

これら永田和宏の歌も、そうである。
永田の歌に「敵を作らぬそんな男があふれいる授賞式会場の笑顔と笑顔」があり、男性の言葉の愛の元は、この辺なのかも知れぬ。

一昨日付けの日記にて、「母親の愛」を書いていたではないかと、そう思われる方もいようが、女の愛は「たとえ世界を全て敵に回したとしても良い」のである。

掲出歌であるが、妻と子の遣り取りを聞いての歌であろう。きっとその詭弁を真似実践しようものなら、三十倍にして返されよう。
そのような現実を踏まえて、詠んでいると思われる。

このブログを始めるまでは、「島田」といえば島田修二そして島田幸典のお二人を、好きな歌人に挙げていた。
しかしながら、あちらこちらと徘徊すると、必ず島田修三にぶつかってしまう。ふっふ、あなどれぬな島田修三(って、本気ではありません☆きっぱり。ご本人には伝えないで下されたし・・・不安)

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