なさけけないと幾たび母の洩らしける身ぢから失せてゆくその日々に   山本かね子

「短歌往来」2002年11月号、特集「介護のうた」より

この特集「介護のうた」は、作品十首とエッセイによるものであった。
それを資料小文を書いたことがあり、下記はその一部なのだが

老人介護というと、真っ先に浮かぶのが痴呆の有無である。まだ若く健康と呼べる状態のとき、大方の人は呆けずに最後の最後を迎えたい、そう思うだろう。しかしながら、聡明なまま介護、特に排尿便の始末を他者に任せることは、かなりの苦痛があるようだ。
山本かね子は母親の心理状態を「萎えし足を打ちて悲しむ母なりき諦めまでの日々長かりき」と表現し「なさけけないと幾たび母の洩らしける身ぢから失せてゆくその日々に」とも詠んでいる。エッセイには〈子供に返る、と老人のことを言うがこれは全く違う。老人は子供になれない。人間としての誇りがあって、それが老人を苦しめるのに、天真爛漫な子供に返れる筈がないのである。〉と書き「済まないと親が言い詫びを子に聞かすせつなし清めゆく身のぬくさ」と、詠んでいる。
久々湊盈子は「パソコンの画面がぼんやり眠りいる尾篭な失態つくろいくれば」と、二十四時間体制の介護の実態を詠み、排便等の経験を語りつつも〈それよりも舅のプライドを傷つけないよう気を配ることの方が大変だった。「寝たきりにさせない、ボケさせない」を介護のモトーにしていたのだが、痴呆がないということは、精神のケアが重要だということである。〉そうエッセイにて述べている。

父の入院に後、一週間をおかず、母との同居をはじめた。
母にとっては、予期せぬ同居であったと思う。
父の見舞いに誘い、帰宅時刻が遅くなったため、わが家に一泊することとなり、翌日天候が悪く吹雪いたため、送ってゆくことが出来なかったのだ。
二日目の夕刻、私の夫より父の退院までこの家にて生活することを、提案された。

検査により、父の腫瘍は良性ではないことがわかり、曖昧なまま同居は長引くこととなった。

互いに、いつか同居をする日が来ることは、覚悟のことであった。
しかしこのような形で始まるとは、予想できずにいた。

今は互いの存在の在り方について、模索中である。