ここよりは先へゆけないぼくのため左折してゆけ省線電車  福島泰樹

バリケード・一九六六年二月」一連より
有名すぎるくらい有名な歌である

先日、1月13日付で藤原龍一郎作品に触れたのだが、未消化の感が残っている
藤原龍一郎歌集は、何冊か持っており、それなりに読み込んでいるつもりであった
彼の作品・仕事振りを見て感じるのは、「生き急ぎ」である。
同年代の歌人、永井陽子も仙波龍英も早世していることが、影響を及ぼしているのかもしれない。
改めて藤原作品を読み返して感じたのは、読者の理解を頑なに拒んでいる部分がある。
どうしても踏み込めない、その部分が歌の中にあるのではないか。
そう思い、他の同世代の歌人を捜していたのだが、急に浮かんで来たのが、福島泰樹の掲載歌であった。

福島泰樹は、1943年3月生まれ。昭和18年に東京にて誕生している
団塊の少し前の世代、学生運動を強く牽引した世代であろう。

読み様によっては、とても暗い歌であるかもしれない。
「ここよりはさきへゆけないぼく」なのである。そこに拡がるのは、閉塞感であろうか。
乗っているのは「省線電車」、官営の交通機関である。
それに「左折してゆけ」と命じている。
この断片だけを繋ぎ合せると、青春の断念と閉塞、今の時代ならばニートとなるか、ヒッキーとなり閉じこもるかなのだろうか。

しかし、時代性なのであろう。閉塞感が、感ぜられないのだ。
傷付こうと、打ち拉しがれようとも、坦々と進み続ける電車がある。「左折してゆけ」と意志の力働く。
そこに横たわるのは、諦念である。
そして一つの時代を終焉させ、尚も前進しようとする強い意志である。

藤原龍一郎にとって短歌は、断念の詩形であると語っている。
私は、自分を含め多くの女流にとって短歌は、諦念の詩形ではないかと感じている。

一つ一つ捨て、削ぎ落とし、そして新に荷物を背負いつつ、その現状を受け入れそれでも尚進み続けねばならぬ、女たちの詩形でもあるのだと思う。

福島泰樹についても、後日改めて触れたい。