何もかも受身なりしと思ふとき机のまへに立ちあがりたり  柴生田稔

短歌の「虎の巻」というのか「アンチョコ」と呼ぶべきか、資料集を紛失してからのブログの出発で、歌がいつまで続くのか不安だったが、何とか続いている。

柴生田稔は斎藤茂吉の直弟子であり、茂吉の研究でも有名な人である。
茂吉の長男である茂太氏御夫妻の、実質上の仲人でもある。そのことでも、いかに茂吉の信望が篤かったのか、理解できよう。
そのひととなりも、温厚かつ辛抱強い性格だったようである。あの茂吉の傍にいて、長年片腕となり働いた人である事から知れよう。

確か、胃からの吐血のエピソードのあったのは、柴生田ではなかったか。
家庭人、職業人、歌人、それらのほかに最も重責である「斎藤茂吉の直弟子」であったのだ。

掲出歌は1934年の「アララギ」二月号に掲載されたものである。
資料によると、この歌の前に「近づかむことはみづから避けたりと思ひいづればさみしかりけり(ルビ・避けたり:さけたり)」この歌が掲載されていたという。

この歌を詠んだときの作者は、二十九歳であったのだろう。
現代でもそうであるが、二十九歳から三十歳にかけて、人は色々と思念するもののようである。特に戦争へと向かった時代であるから、大学教授の職にあった作者は、深くあり越し方そしてこれからの自分の進む道を考えたであろう。
そのとき「何もかも受身だった」と気付いたというのである。
青年から壮年へと向かう柴生田稔は、そのことに慄然としたのであろう。唐突に机の前に立ち上がったのだ。
そのときの思いは、一体どのようなものであったのか、測り知れない。

その後、国が戦争へ道へと突き進むことへの、深い疑念を抱きながらも、陸軍士官学校の教授とならねばならぬ命運にあったのだ。

私にとって、茂吉以上に興味の尽きない歌人である。

(補足・掲出歌「受身」を「うけみ」とルビがふってある)