日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも  塚本邦雄

昨年他界された、塚本邦雄の歌である。短歌を詠んでいなくとも、塚本邦雄の名を知っている方は、知識人の中に多いと思う。
しかしながら、知識人の前に「旧」の文字を冠せねばならぬ時代と、なってしまったのかもしれない。

もう2〜3年前になろうか、短歌における社会性・思想性について、他者の作品をネット上にて追及する青年がいた。
自分も歌を詠み、いずれは歌人として身を立てるであろうと、語っていたのだ。
イデオロギーについて云々するので、「塚本邦雄の液化するピアノの歌についてですが」と話をふられたときの答えは、「塚本邦雄の名前は始めて聞きました」だった。
そしてその青年は「塚本邦雄の歌について、ネットで検索してみましたが、あんまり良い歌詠んでいませんね。僕の歌の方が、優れています」と自信たっぷりと語ったのだった。
塚本邦雄とその青年の歌の優劣について、この場合語る必要はないだろう。全ては主観の問題であり、その人その人の歌との係わり合いによって、評価も当然変わってくるものであろうから。
そのとき私は、塚本邦雄の名前くらい、覚えていなくては歌を詠んでいて困るだろうと、余計なことを考えたのだが、その青年にとって塚本邦雄は必要のない存在なのだそうだ。

それまで、塚本邦雄岡井隆宮柊二、佐藤佐太郎、斎藤茂吉、それらの歌人の代表作を諳んじられないまでも、名前を知っているのが常識と思っていた。知らなければ、調べて知識として持つべきであると信じていた。
例えば「佐太郎の紫陽花の歌なんだけれど」等と、会話を交わすことも何ら不自然なことではなかった。

しかしその常識が、常識ではなくなっているのではないだろうか。

その後その青年との関わりもなく、歌を詠んではいるようではあるが、その歌がどのようなものであるのか、私にはわからない。
ネット上での、歌の遣り取りをしている人たちの一部にとっては、その青年のエピソードは、違和感を感じることですらないのだろう。

ある部分ではでは、歌が一方的な心情の発露の道具となり、鑑賞も批評も必要とされぬまま、浮遊する時代となってしまったのではないだろうか。
それについて、不都合や違和感を感じることすら、出来ぬ時代なのではないか。

私たちが、今まで持ちつづけ、これからも決して捨てることのない、短歌感とまったく違った地平で、短歌を読み、詠む一群があることを、認めざるを得ないのだ。