砂白き磯につくばひ秋の日を大海原に手を浸し見る  窪田空穂

昨日付けの日記に「ある部分ではでは、歌が一方的な心情の発露の道具となり、鑑賞も批評も必要とされぬまま、浮遊する時代となってしまったのではないだろうか。」と書いたのだが
1930年(昭和五)に窪田空穂は「必要のもの不必要のもの」という短文を発表している。
アンチョコを紛失し、色々と資料を繰ってみたが、興味のある方は『現代短歌一〇〇人二〇首』(邑書林)の山田富士郎氏の文章をご確認いただきたい。

現代短歌一〇〇人二〇首

現代短歌一〇〇人二〇首

「必要のもの不必要のもの」の中で、空穂は当時の短歌の発表媒体を通して感じたことを

それにつけても、創作欲と、鑑賞欲、又は研究欲とは、別種のものであるといふことが思はせられる。歌の創作は、鑑賞、研究を必要とするものである。それにもかかはらず、その方面のものは要求されてゐない。今更のことでもないが、注意に値することだと思ふ

このように、書かれている。
「鑑賞も評論も必要」とされていない作者は、いつの時代にも当然いたであろう。
但し、山田氏も同様の事を書かれているが「歌の創作は、鑑賞、研究を必要とするものである」この常識は、近代において当然として生きていたのである。
現代は如何かと言うと、「研究」とまでは言えぬかもしれないが、鑑賞、批評というかたちで、学習されることが、当然とされる常識があった。
短歌は「場」の文芸であり、詠者と読者がいて、はじめて成り立つものである。
歌を発表する行為は、その「場」を必要とされた。
しかし今、その「場」の土台すらが、危うく(こう感じるのは、ロートルなのであろう)浮遊をしているのではないか。

掲出歌は空穂の第一歌集『まひる野』からのものである。
空穂の短歌への傾倒は、代用教員時代の太田水穂との出会いが契機であろう。
その後、与謝野鉄幹との知遇を得、「明星」の創刊から参加している。
太田水穂は妻志賀光子と共に、「潮音」を創刊している。同人には、葛原妙子、小田観蛍等がおり、「日本的象徴主義」における「心象」詠が根幹であろう。
空穂の詠風は、明星の浪漫主義に流されることなく、水穂の提唱する「象徴主義」とも画す、大いなる自然賛歌とはいえないだろうか。

蹲い手を浸す砂浜の波が、大海原の一部である。青年窪田空穂の、視線の無限を感じるのであった。

(補足・ルビ「浸す」:「ひたす」)