「動かぬ画鋲」に散見する自然詠

歌集中、自然詠は冒頭部分だけでも

  

朝日受け寝台列車の運び来し雪のかたまり枕木に落つ

  アメンボの細長き脚ふんばれば水の面のわづかにへこむ

  七月の水田の水の見えぬまで稲の高さのそろひて伸びる

  霧深き山頂も立ちフラッシュをたけば光の白く広がる

これらの作品が、見られる

特に三首目の歌などは、自然詠としても出色の作と思う

写生を学ぶために、まず「物」次に「人」(人事)最後に「自然」と言われて来た

客観写生を学ぶ者は、この順序に従い詠んで行く

それは、詠むのに難しいものの順でもあるわけだ

例えば「湯呑茶碗」と写生する。これは、観光地へ出かけて、自然の景を写すよりも、難しい。

「只事歌」は修行中に多く作るが、これを極めようとする歌人は少ない。なぜならば「そうですか」短歌となりやすいからではなかろうか。

「客観写生」といえども、見ている作者の主観が入るのだが、その主観のありどころなのではないだろうか、歌の良し悪しを分けるのは

短歌は「感動の文学」と呼ばれているが「感動」とはことさら驚き、涙を流すことではなく、ほんの些細なことにでも、感情の動きを見せることではないか

感性の揺らぎとでも表現をしたら良いのだろうか

その点で、見事なまでに感性のアンテナが動いている
  

割る前は誰のでもない割り箸が割つてしまふとだれかのになる

この一首も「そうですか」短歌となるぎりぎりのところで、かわしている

そこには「技」があり見事なまでの「芸」であるといえる

風間博夫こそ、客観写生の王道を歩むべき逸材ではないかと、思われる。