ここからは海となりゆく石狩の河口に立てば、立てば天啓  俵万智

1991年刊行の歌集『かぜのてのひら』の一首。

かぜのてのひら (河出文庫)

かぜのてのひら (河出文庫)

会うまでの時間 自選歌集

会うまでの時間 自選歌集

チョコレートの詠まれている歌を捜していて、石狩川の河口に行き着いてしまった。
たしか「短歌」に掲載された歌ではなかったか。1990年前後であろうか

友人が「俵万智はコンサバティブな歌人である」と表現していたが、「かぜのてのひら」の一連を読むと、その思いを強くする。

歳月は等しく我らに注げども海は海としてとどろくばかりなり
石狩の今は昔の鮭漁のざわめき聞こゆ波のかなたに
散るという飛翔のかたち花びらはふと微笑んで枝を離れる
チューリップの花咲くような明るさであなた私を拉致せよ二月
多義的な午後の終わりに狩野派の梅だけがある武蔵野の春
かすみ草にいたるやさしさ花束のできあがりゆくさまを見ており
さみどりの葉をはがしゆくはつなつのキャベツのしんのしんまでひとり
なんとなくわかったような気になって「登校拒否」とその子を呼べり
古文漢文の解答欄の余白には尾崎豊の詞を書いてくる
四万十(しまんと)に光の粒をまきながら川面をなでる風の手のひら
四国路の旅の終わりの松山の夜の「梅錦」ひやでください
我という銀杏やまとに散りぬるを別れた人からくるエア・メール
折りたたみ傘をたたんでゆくように汽車のりかえてふるさとに着く
定期券を持たぬ暮らしを始めれば持たぬ人また多しと気づく
海荒れしのちに鎮まりきらぬもの我が少女期のように内灘
早春のアンビバレンス日記にはただ〈∞(無限大)〉の記号をしるす

これらの一連に、何故あの頃あんなにも多義にわたり、擁護・否定派に分かれて意見が飛び交っていたのか、不思議となるほど、定型を守り基本に忠実に詠まれていることに気付く。
これらの歌には具体があり、一首毎の背景も見えてくる。
今となっては、クラシカルな読み方ともいえよう。

「チューリップの花咲くような明るさであなた私を拉致せよ二月」この歌を読み、即座に思い出したのは
河野裕子「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」
福島泰樹「その日からきみみあたらぬ仏文の 二月の花といえヒヤシンス」
この二首であった

教職を去らねばならぬことへの、無念も感じさせられる歌もある。高校教師であることに、誇りを持ち教え子たちの未来を見つめようとする、若い女性の姿勢も感じられる。

掲出歌であるが、石狩川日本海へと注ぐ、河口広き川である。
石狩平野の端に立ち、流れゆく川水から海水へと視線を移す。二本の足は地を確りと踏み、「立てば」と繰り返している。そこで作者は「天啓」を感じたと表現している。
その「天啓」がどのようなものであるか、窺い知ることは出来ぬが、身心が自然と同化しようとしている作者の、海風に吹かれながら立つ姿が、この一首から見えてくるのだ。