端境期のひと

昨日の1月12日付け読売新聞の文化面に、永田和宏×永田紅の対談がある。
団塊VS団塊ジュニア」の超・世代論がテーマであるらしい。
そこで、団塊世代は「新しいことが価値」であったが、団塊ジュニアは「短歌の本道で勝負しようという意識」と述べている部分があった。

終戦記念日にあたる、天皇の「敗戦の辞」がラヂヲから流れたのが8月15日であり、学齢的にもその数的塊の差は歴然とる。
よく○○前後と一括りにされやすい。しかし、団塊の世代はどうなのだろう
私たち団塊以後の人間から見ると、団塊の直前から団塊の世代は、近しいものがある。ただ団塊前の人たちは(男性に限ってであるが)非常に恵まれ団塊世代より幾分文化的に甘やかされた感は拭えない。

私たち団塊を過ぎてしまった世代が社会に出たとき、団塊の世代「おじさん」であった。
不思議なことは、同世代の女性に関しては「おばさん」ではなかったことである。職場や社会で会う女性は、素敵な憧れのお姉さま達がほとんどであった。
団塊並びにその直前世代の男性は、古い価値観を都合良く温存しながらも、多くのものを破壊しようとする人たちであった。
何でもかんでも解体することが是と、信じているような印象がある。
それは学生運動・労働運動に現れ、一時期のムーブメントを起したが、都合良くそこから手を引く人たちが多いのも特徴と思われる。
常に思考に「価値観の破壊」のある人たちであるから、社会にでて職業人となってもそれは変わらなかった。
その破壊されたものを、再構築し直すのがわれわれ団塊を過ぎてしまった世代であったように思われる。あの人たちが壊したものを、新しく形にするのが私達の世代ではなかったろうか。
団塊とその直前の人たちが教員となった頃、教え子とだった世代として、そう感じるのである。
臆病・無関心と言われながらも、私たちは文化・思想の再構築をせずにはいられぬ立場だったのである。
しかしながら、上の世代が極端に一塊となり人数が多いため、常に「まだ新人」の立場でいられる美味しい立場でもあるのだ。
そこまで考えが至ったとき、昭和20年代末期に生まれた人達の事を思ったのである。
まだ団塊世代の価値観が、根強く残っていた世代であろう。しかしその価値観を、私たちに手渡すことをせずにいてくれた世代である。そして「いつまでも若手」ではいられぬ世代である。
歌人でいうならば、昭和27年1月生まれの藤原龍一郎が当にその世代であろうか。