髪の毛がいっぽん口にとびこんだだけで世界はこんなにも嫌  穂村弘

1月10日の日記にての歌と同じ、「短歌」12月号より。
穂村弘の短歌には、なるべく近寄らないように、気を付けているのだ。
近寄ってはいけない、危険だそう感じる。
この感覚、例えば麻薬を前にした感覚とは、違うと思う。
苺や季節のフルーツが沢山飾り付けられた、生クリームのデコレーションケーキを目の前にしたときの感覚に近い。
極上のトリュフ(チョコレート菓子の方)を一箱置かれたとき。
大好きな果物の盛り合わせを.........そのとき、周囲に誰も居ない。
私はケーキを1ホール食べきる事も、トリュフの詰め合わせを一箱、山ほどのフルーツの盛り合わせ、全て食べきりたい、そんな誘惑に駈られる。
それに近いのだ、穂村の短歌は
「避けて通りたい、ああしかし」の魅力がある。

「短歌」12月号は、ちょっと違うような気がした。
それは何なのだろうと、考えていたのだ。
穂村弘の歌の人物は、現実を生きているようでいて、生の実感に乏しい。それはまるで、少女漫画の世界の、登場人物のようなのだ。
つるんとして清潔な、人物像が浮かんで来る。
掲出歌なのだが、この歌には「体感」がある。これは穂村弘の短歌としては、めずらしいのではないか。
とても卑近な部分での体感を、詠んでいる。
確かに四十代の大人の男の表現としては、物足りないものがあろう。
その辺のところを「竹の子日記」の1月21日付の「棧橋」85号の大松達知氏の時評の転載を読んで頂きたい。大松氏は実に的確に、捉えていると思われる。

NHKの短歌大会の様子を、テレビにて放映されたものを見たのだが、選歌・講評ともに穂村弘は、オーソドックスでありながら的を得たものであった。
勉強家であり、感覚的にも優れたものを持ち合わせた人なのだと感じた。
だから尚更、多くの歌人に物足りなさを感じさせるのであろう。
石田比呂志が「こんなものが短歌なら自分は腹を切る」と語ったとの風評は、有名ではあるが。本当に駄目なものならば、一言も触れないであろう。

三年も前になるだろうか、石田比呂志歌集「老猿」の穂村弘評が、牙誌上に掲載されている。書くには足らぬ、不要なことであるかも知れぬが。