生活の中の光の如くにも妻に磨かれて白き卵あり   石田比呂志  (ルビ・卵:らん)

第一歌集『無用の歌』より


本当は、今日は七月七日
七夕なのである

七夕の歌を、せめて天の川の歌を思ったのだが、見つからず
とりあえず、七月五日付けでお茶を濁すこととする。

この歌を詠んでいた頃、前後の歌から察するところ、石田比呂志はやはり定職についていないようである。
それでも、友人が一升瓶を抱え持ち来訪し、飲んだくれていたようだ。
そのことを無聊と思いつつも、どうにもならない自分を抱え持つ。

賢妻の山埜井喜美枝は、そんな石田の傍らに寄り添い、自作を作歌しながら、夫を支えていたのだ。

昭和の三十年代は、卵も養生食であったことだろう。
貴重品だったのだ。

八百屋や雑貨屋の店頭の、大きめの籠に入れられて売られていたのではないだろうか。
今のように、プラスチックの透明なパックに入っているわけではなく、
一個二個と、ばら売りをしているものを、買って来ていた。
時には汚れていたり、鶏の羽がついていたものも当然あったはずだ。
その卵を、妻の山埜井喜美枝は一心に磨いていたのだ。

歌人である夫を、磨くが如く。

当時、まだ冷蔵庫もなかったことであろう。
買って来て、間もなく食した時代である。
それでも、丁寧に磨かれ、自ら白き光を持つ卵。

まだ若い夫婦の、せつなくも美しい生活の風景である。


(補足)石田比呂志の口癖は「ダイアモンドなど宝石となる原石は、磨けば光るのは当然である。しかし道端に落ちている石でも、磨きようによっては、自ずと光を放つようになる。小石は小石なりの、光を持つようになるのだ」である