たまさかに届く小包ヴィタミンが欲しくて桃の缶詰を切る  島田幸典

つい最近、知人である19歳の男の子(少年とも青年とも呼ぶには、中途半端なのだ)が、短歌の集まりで、島田幸典と会って話し込んでいたらしい。
その青年(と一応しておこう)にとって、初めての歌の集いであった。

人生に対し、自分の将来に対し、思い悩んでいたようである。

ふと、島田幸典のその頃の歌を読みたくなり、結社誌を探していて、掲出歌と出会った。

1991年、確か島田幸典が大学に入学した年である。
この年に生まれた長男は、今や中学三年生の受験生である。
あと二・三年後には、島田幸典が短歌との出会いをする歳になるのだ。

掲出歌であるが、この場合の「たまさか」は、「思いがけず」くらいととらえて良いのだろう。
おそらく実家からの小包、母親が色々と詰め込んだ段ボール箱の中から、桃の缶詰を取り出して、蓋を缶切りで切ろうとしている。
小包の送り手は、届ける相手の事を思い遣り、何かと詰めたがるものである。
「送料が懸かるから、その分現金で送ってやった方が」と言われようとも、ついつい詰め込んでしまうのだ。
そのような相手の気持を、「ヴィタミンが欲しくて」と受け入れる大学一年生の島田幸典がそこに息づいている。

1991年8月号の結社誌には他に

稚きバイエルきこゆ姫君の佳き名も見ゆる夕暮の墓地(ルビ・稚き:いとけなき)
真如堂までの家並瓦屋根低く温日を受けて光れり
仏蘭西語初等教本詩人ら讃えし都巴里訪いたし(ルビ・仏蘭西:フランス 教本:テキスト 訪いたし:といたし)
何事もなきを悔いる夜化学書の頁に頬伏せ眠る
胸うがつ哀しみもあれ生焼けの苦きピーマン齧りいる夜

これらの歌がある。

まだ少年の貌のある島田幸典が、そこにはいる。

先ほど歌友から、島田幸典も妻を持ちすっかり落ち着いた様子であったと、電話にて聞いた。

あの青年も、十五年後どのように変貌を遂げているのだろう。

わが家の長男は、将来「歌人俳人・詩人」にはならぬと言っている。
「特に歌人には絶対に」ならぬのだそうだ。   (7/31)

もうゆりの花びんをもとにもどしてるさっきあんな表情を見せたくせに 加藤治郎

加藤治郎は、加齢してゆく歌人である。
こう表現すると、誤解を招きそうなのであるが、表現、技巧それらが年数を経るごとに、成熟してゆく。

掲出歌は歌集『サニー・サイドアップ』より。

まだ二十代の頃の作品である。

この歌が、後朝の歌(古い表現でごめんなさい)であることを知ったのは、恥ずかしながら最近のことである。

先日そのことを友人に話したところ、友人も初めてこの歌に接したとき別な印象をもち、解釈が何通りにでもできる歌であることを話し合い、楽しませていただいた。

①さっきまで機嫌を損ね怒っていた恋人が、今はご機嫌で百合の花びんの水替えをしている。
②職場で昼休み、笑顔でランチを食べていたOLが、午後からの業務の途中、百合の入っている花びんの位置が業務上の邪魔にならぬように、場所を変えている。
(やはり働く女性で)
③会議室にて打ち合わせ中、厳しい表情を見せていた女性(作者が密かに好意を抱いている)が、会議が終わりふと窓際に置かれた百合の花びんのずれを直している。
④機嫌よく話をしていた妻または恋人が、話の成り行きで機嫌を損ね、その怒りの感情を抑圧するため、百合の花びんに手を持っていき気持を抑えている。

イマジネーションを膨らませながら解釈を論じ合うことも、歌を読むことの楽しみの一つである。
優れた作品からは、色々なイメージが喚起される。

そしてまた最近、知人のサイトにて

 波のようにめくれる遠いくちびるをみつめる君は朝に生まれた

 雨の午後届いた青い便箋のあなたの文字は裸体であった

 硝子器にあわく拡がる球根のようにあなたは闇を誘う

 クーラーの水のこぼれるろろろろと少女の舌はようしゃなかった

最新歌集『環状線のモンスター』のこれらの歌が、「エロチックな『愛の歌』である」と評をされていた。
(知人には、男女の愛の在り方を、レクチャーしたばかりだったのだが、今度は私が習おう)

加藤治郎はこれから、どのように歌の姿を変えてゆくのであろう。
老成する日が来るのだろうか。




矯正視力が1.2を越える眼鏡をかけて、細密な字を読んでいると
眼精疲労のため、途中で送信UPしたくなる私も、
共に加齢を進めて言っているのであろう。

生活の中の光の如くにも妻に磨かれて白き卵あり   石田比呂志  (ルビ・卵:らん)

第一歌集『無用の歌』より


本当は、今日は七月七日
七夕なのである

七夕の歌を、せめて天の川の歌を思ったのだが、見つからず
とりあえず、七月五日付けでお茶を濁すこととする。

この歌を詠んでいた頃、前後の歌から察するところ、石田比呂志はやはり定職についていないようである。
それでも、友人が一升瓶を抱え持ち来訪し、飲んだくれていたようだ。
そのことを無聊と思いつつも、どうにもならない自分を抱え持つ。

賢妻の山埜井喜美枝は、そんな石田の傍らに寄り添い、自作を作歌しながら、夫を支えていたのだ。

昭和の三十年代は、卵も養生食であったことだろう。
貴重品だったのだ。

八百屋や雑貨屋の店頭の、大きめの籠に入れられて売られていたのではないだろうか。
今のように、プラスチックの透明なパックに入っているわけではなく、
一個二個と、ばら売りをしているものを、買って来ていた。
時には汚れていたり、鶏の羽がついていたものも当然あったはずだ。
その卵を、妻の山埜井喜美枝は一心に磨いていたのだ。

歌人である夫を、磨くが如く。

当時、まだ冷蔵庫もなかったことであろう。
買って来て、間もなく食した時代である。
それでも、丁寧に磨かれ、自ら白き光を持つ卵。

まだ若い夫婦の、せつなくも美しい生活の風景である。


(補足)石田比呂志の口癖は「ダイアモンドなど宝石となる原石は、磨けば光るのは当然である。しかし道端に落ちている石でも、磨きようによっては、自ずと光を放つようになる。小石は小石なりの、光を持つようになるのだ」である

ぶろぐさいかいいたしました

大変長らくお休みをいたしましたが、何とかブログの再開をすることと相成りました。

開始当初は、365の歌をここで紹介できたらそれで良し。
そのように思っておしました。

ですから、日にちが多少ずれても、一年分をの日付を埋めると、それで切り上げと決めておりました。

けれど、こうして歌を詠めていても浄書できない。
歌を読み、感じるものがあっても、それを言葉として表現できない。

その体験を経て、いかに自分が不遜なことを考えていたのか、思い知りました。


これからは、休み休みの更新となることもありましょう。
それでも、歌とかかわることの大切さを思い知ったこと、それを宝として、続けていきたいと思っております。

不器用で不器量なりし梅ちゃんが孫の節句の鯉泳がする   上野春子


上野春子は、本当に嫌味な女である。
春子の自慢は尽きない。
「大福10個を数分で食べた、これほど早く大福を食べられるのは自分しかいない」
「今日も道で躓いた、しかし転ばなかった。この状態で転ばぬほど強運なのは、
 世の中広しといえど、自分しかいない」
などなど、話を聞いていたら、限がない。

春子は、私より身長が10cm程低い。
その身長差でも、体重の軽いことを自慢する。

極めつけは「私、藤原龍一郎さんと、生年月日が同じじゃけん」
それがどうした春子よ!確率の問題であろうが.......


本当に自慢好きな女である。


しかし、一番腹が立つのは、上野春子のそれら傍若無人な言動の数々が、愛嬌で済まされることである。
嫌味も聞きなれてしまうと、軽い憎まれ口で、殆どの人は聞き流し
寧ろ、それがなければ寂しいと思う人まで、現れるのである。

なんと嫌味な女であろう也。
私は、結社内外で身を小さくして潜め、痩せる思いをしているのだ。
思いだけが募り、ストレス太りをしている私に対して、「太ると良い歌できないわよ」という。


ふっ、そうか春子.....最近歌のキレの悪いのは、身体の重たさが原因だったか。




掲出歌は、結社誌7月号からの作品である。
その体の重たさが禍してか、歌が平坦である。
(思い知ったか春子よ。もはや、中老であろう)


梅ちゃんとは、同級生の女の子であろうか。
この手の名前の女性は、大人しく従順なタイプが多い。
うえのせんせーとは、真逆なタイプである。
その梅ちゃんを、愚図だのとろいだのと言って、いびっていたのではなかろうか。
しかしあの春子であるから、梅ちゃんも愛嬌と勘違いし、笑って済ませていたのいであろう。


しかしながら、その愚鈍と思われていた梅ちゃんが、自分よりも先に孫を為し、節句に鯉幟を泳がせているという。
歯軋りしながら、口惜しがったのではなかろうか。


否、しかしながらあの春子のことである
きっと「梅ちゃんも、ばあちゃんかい。私はまだ若手女流歌人と呼ばれているのに」
そのような、とんでもない勘違いをし、大笑いをしていることであろう。

なさけけないと幾たび母の洩らしける身ぢから失せてゆくその日々に   山本かね子

「短歌往来」2002年11月号、特集「介護のうた」より

この特集「介護のうた」は、作品十首とエッセイによるものであった。
それを資料小文を書いたことがあり、下記はその一部なのだが

老人介護というと、真っ先に浮かぶのが痴呆の有無である。まだ若く健康と呼べる状態のとき、大方の人は呆けずに最後の最後を迎えたい、そう思うだろう。しかしながら、聡明なまま介護、特に排尿便の始末を他者に任せることは、かなりの苦痛があるようだ。
山本かね子は母親の心理状態を「萎えし足を打ちて悲しむ母なりき諦めまでの日々長かりき」と表現し「なさけけないと幾たび母の洩らしける身ぢから失せてゆくその日々に」とも詠んでいる。エッセイには〈子供に返る、と老人のことを言うがこれは全く違う。老人は子供になれない。人間としての誇りがあって、それが老人を苦しめるのに、天真爛漫な子供に返れる筈がないのである。〉と書き「済まないと親が言い詫びを子に聞かすせつなし清めゆく身のぬくさ」と、詠んでいる。
久々湊盈子は「パソコンの画面がぼんやり眠りいる尾篭な失態つくろいくれば」と、二十四時間体制の介護の実態を詠み、排便等の経験を語りつつも〈それよりも舅のプライドを傷つけないよう気を配ることの方が大変だった。「寝たきりにさせない、ボケさせない」を介護のモトーにしていたのだが、痴呆がないということは、精神のケアが重要だということである。〉そうエッセイにて述べている。

父の入院に後、一週間をおかず、母との同居をはじめた。
母にとっては、予期せぬ同居であったと思う。
父の見舞いに誘い、帰宅時刻が遅くなったため、わが家に一泊することとなり、翌日天候が悪く吹雪いたため、送ってゆくことが出来なかったのだ。
二日目の夕刻、私の夫より父の退院までこの家にて生活することを、提案された。

検査により、父の腫瘍は良性ではないことがわかり、曖昧なまま同居は長引くこととなった。

互いに、いつか同居をする日が来ることは、覚悟のことであった。
しかしこのような形で始まるとは、予想できずにいた。

今は互いの存在の在り方について、模索中である。

死ぬまでをともに暮らすと来し舅のネルの寝巻きが風にはためく  久々湊盈子(ルビ・舅:ちち)

久々湊盈子の舅にあたる本名久々湊与一郎氏、俳人湊楊一郎は1900年1月1日に生まれ2002年の1月2日に亡くなっている。北海道の小樽市出身と、資料にある。
湊は新興俳句の弾圧運動にも抗し、創作だけではなく論に対しても、雄弁な方だったそうである。
1945年中国の上海に生まれ、肉親との縁に薄かった久々湊盈子にとって、嫁いだ久々湊家の両親により、家庭というものを知ったという。

16年間の介護生活、ともに暮らすとやってきたのは、86歳であったか。

86歳になったなら、ともに暮らすと素直にやって来てくれるのだろうか。
実家の父は、79歳。今年の6月で80歳となる。
来週の月曜にT市の市民病院に入院をさせ、翌火曜日には病理検査のため手術に立ち会わねばならない。
悪性リンパ腫の可能性が高く、手術後一週間ほどで結果がわかり、治療方針も決まるという。
外科で削除手術となることはありそうもなく、内科による治療となるであろうと、主治医に言われた。

父は大正15年生まれ、徴兵検査では第一乙種(腺病質であったため)、人間魚雷「回天」の操作の抗議を受けていたのが終戦の日であった。

実家のある町の総合病院にて検査を受け、紹介状と検査結果のコピーを持ち、28日の火曜日にT市まで夫とともに付き添い、行って来たのだ。
わが家は、実家とT市の丁度中間点にあたるのだ。

両親の老いを感じだし、同居を考え出してから、もう何年にもなる。
母は同意しているのだが、父は中々首を縦に振らない。
しかしもう待てない。強行突破あるのみである。
悪性リンパ腫であったとしても、年齢的に進行は遅く、治療次第では天寿をまっとう出来るかも知れぬと、期待を抱くのは、肉親として当然であろう。

父に対して、素直な良い娘であったとは、決して言えない。
高校三年の秋、進路を巡って対立してより、わだかまりは20年以上に及んだ。
やっとそれも解け、父と素直に向き合えるように、なり始めたばかりであった。

28日の憔悴ぶりの激しさは、夫も戸惑っていた。
三十代以降は身体も頑強であり、時間に正確な厳格な人であった。
10日間の不安による緊張が、不眠をもたらし、体力気力ともに消耗し尽くしたのだろう。
一気に年老い、痴呆の心配すらもしたのだ。

昨日様子を見に行き、前回した入院準備の物を、再度点検しなおしてきたのだが、二日間眠り大分復調したようだった。

愚痴日記です。自分の日記だもの、良いよね。。。。。。。。。